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神示・・四つアの世と七つの燈台の火②


かく成りては、神にも手順あり。アバキ、アガナヒ、アガキの世を通って、アカナヒの世(明かな霊、明かな陽《日》の世)と致す外なし。「四つアの世」参ると申すなり。四つアの世は又七つアの世なり。七つのみ使いも強く働き出すなり。七つの燈台に火がつく世になるなり。汝にラッパ吹かす役せしむるなり。「アフンの世」はさけさせやりたきもの。

宗教宗教と申すも、神主、実は、神盗と相成り、喰いおるもの多く、坊主丸儲けとなって芒主となり、宣教師は何もセン教師と相成るもの多くなりて、主を死なしめ万宗教は、神より見れば大方が山なき宗教、中には醜教の世とさえ化したるなり。

科学は神学を見失わせたる仮学、化け学のみに致し終わりたり。

一切勝手と、人間丈の御都合にて、神の創りしものメチャメチャに致し参るのみならずや。神の都合考えしことありや。こを偽りの世、偽の世と申すなり。

故に神は本物の世に大立て換え致さざるを得ざる時参るも無理なからん。人間気付きお詫びする心にならざれば、神、霊と火の大洗礼期に這入る外なくなるを以て、人間、罪業詫ぶる心出てざる限り。如何に平和平和と申すも、共存共存と申すも、原爆いやいやと思いても、現界も火玉造りは、止らぬよう相成るべし。

ホドケの仏も、上座、神座に還り、観音もずきん取る故、神智の光頂きて、源の霊魂浄めて、明かなと致さざる限り、くどく申すなり。人知丈にて思えば思う程人力丈に成るを以て、多くはアガナヒの人生や世となるなり。

特別の大み役もたしめて神選びされて此の世に出されしものの外は、その犯せしその家としての包み気枯れ残し持つ丈、苦労や災厄に明け暮れ、アガナヒつづきが人生と相成り、天国人生、極楽の国土が訪れること、普通は当分の世一切夢と化するようキビシクなるなり。

此度の如く、大神やり出さば、人間のやること見当皆違い来たる故、「狂いの世」と化して参るのみなり。泥沼の世造らば抜き差しならぬなり。魂霊明かな世とする為、明かな魂霊住み得る如くアカナ地の上に戻さざれば住み得ざるべし。地の上、火にて一度焼き払うことも致す外なくならん。神火玉(弾)造りさせて、アチコチ火噴くかん。

真暗の世にいつまでもしておくわけには参らざるなり。
暁、世に迎えしむべし。闇の世、陽の世に致すには、太陽出すより仕方なからん。神の霊の界に陽火魂神出す(出演)より外なきことも判るならん。霊の界、火、日、陽出づる故、暗きを好む邪の魂霊は、段々にアガキきつくならん。従って、いよよ地はゴタゴタ、メチャメチャの事次々起こるようになりて危なし危なし。上も下も、親子も友達同士も、わけわからぬよう相成り、打つ手なくならん。

神頼みする世迎えしむる外、気付かしむる法なくなり。行き詰まらせざれば判らざるオロカ者の世こそ今世なれと申すなり。神、下ろしにオロして、オロガミ致さぬ故、オロオロ致す世と、人間ども致すを以て、オロカとも申さしむるなり。神を降ろして神の子人を人間に致し、値打ちは下げておきながら、神の上に我を出して、まだ足らざるが如く、四足人間に致して、オロオロに降ろして、己で己等を、生き地獄の世へ落として行くなり。オロシ器にかかる大根に等し。

上捨つれば、己を下ろして下剋の道よと上をヒックリ返して下と書かしめあるにあらずや。脳なし魂無くして首だけ乗せて道よ道よと威張って走らんと思う故、立って歩くことも出来ざる如くなるなり。(四足獣人)

人間我のしくじりなり。火捨つれば夜道はあぶなき定めなり。火のせて走らず(霊主霊智に生きること)、米のせ申して走ろう走ろうは(食うこと丈、唯物観のこと)、迷いの元なり。マヨイ(真宵)なり。真暗の夜は、異のイを起こす故マヨイマヨウ(ウ・生む)なり。迷いの道は、霊智(正法神向)知らせ申して、元路へ引きもどすなり。ナホスなり。スに直くなれよ。マ光かかぶれるよう相成る故、明かな霊となる易々たり。

神道も仏教も基教も、主神拝みし釈迦、イエスの生きあり時の教えに万教者も世人も還りて、マ光放ち得る使徒と化すさざるべからず。神裁きの世、仏滅の世参る丈なり。狂者揃いの世となる丈にて救いは中々のこととなるべし。人間不在に非ずして人間不要の世となるを以てなり。出づべし。出さざるを得ざる如く致す故、神出すべし。

何時迄、アエギ行かんとはする。もう目を覚ますべし。覚むるべし。夜明けなり。何時迄も夜の教えにしがみつきありても滅しか待ちあらず。神界も、大仏界も、元の光の世に還るなり。その夜明けなり。滅を免れ乗り越ゆる方便は一つしかあらず。光玉に宣らせし「霊文明の世への暁」への実践行と、「人間神性化」の外、人の乗り行く霊智なくなるなり。

御聖言「四つアの世と七つの燈台の火」より  (後半文)



→(参照2013.7.23)

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